【いるか別館絵置き場】

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絵置き場>>超岱企画(!)






「支柱となりし無形なる想い」 





紙を手に入れた。
蜀に降った後、自身と僅かばかりとなった身内の者へ身辺を整えるべく支給された品々。
その中にあった。
まだ木簡や竹簡が主流の時代、紙は貴重なものだった。
厚遇されている、と思うべきだろう。
しかし、まだ新参者として蜀という地に馴染んでおらぬこの身に記すことの何があろうか。
馬超は僅かに自嘲しながら机の上に広げた無用の長物を眺めている。
 
岱にやろうか、と思った。
珍しいものだし几帳面なところのある岱ならばきっと喜ぶだろう、そう思った。
馬岱の喜ぶ姿を思い描いているうちに心が明るくなるのを感じる。
振り返ってみれば真に身内と呼べるものは岱だけになってしまった。 
 
幼き頃は兄弟も同然だった。
『若』と呼ばれるようになってからは臣下として惜しみなく忠心を尽くしてくれた。
今此処に生きて己があるのも岱の助けがあればこそ、と思う。
復讐という鬼に心を埋め尽くされそうになる時、主としての責務を思い出させてくれる岱。
何の枷もなければ荒ぶる心のままに無謀な戦に挑み果敢なく散っていたかもしれない。
時には普段の実直さを忘れさせるほどの武を繰り出して危機を救ってくれたこともある。
その存在をありがたく思いながら、改まって礼を言うには近すぎて言葉にすることなく今に至ってしまった。
 
 
 
「そうだ」
 
馬超は立ち上がると手箱の中から文房具を取り出した。
硯と墨と筆と。
水差しの温んだ水を硯に落とし墨を磨る。
心が鎮まる動作のはずなのに己が思いつきに心が逸ってつい手が速くなる。
岱に文(ふみ)を書く――――長く共にあって、ありそうでなかった機会。
次々に思いが湧き上がってくる。
懐かしい昔語りも良い。
先の抱負でも良い。
 
先ずは空で『岱』という文字を書いてみる。
文どころか筆を持つのも久しぶりだったが、なんとなく上手く書けそうな気がした。
そういえばかつて父の様に慕っていた人に『良い字を書く』と褒められたことがあったか。
遠い日の思い出に痛みを感じながらそれを断ち切るように墨に筆先をつける。
 
が、実際に書く段になって手が止まってしまった。
湧き上がる言葉はいくつもあるのに礼を、と思うと、どこか面映いような気恥ずかしさが先にたつ。
今まで私的な文を書くことが殆んどなかったこともあって文章が纏まらない。
ああだ、こうだと唸っているうちに硯上の墨が乾く。
馬超は水を足してまた墨を磨るはめになってしまった。
 
何度も唸り、何回か墨を磨りなおし――
しかし、ついに墨が紙面を染めることはなかった。
 
 
 
「これだから俺は…」
武辺一等の男と見られてしまうのも無理からぬこと。
戦場では錦馬超と恐れられる自分が文ひとつ書けぬとは。
思わずハハ、と苦笑が漏れる。
その僅か後、躊躇いがちに部屋の戸を叩くものがあった。
 

「失礼いたします」 
己の声よりも聞き慣れたそれは誰何するまでもなく。
「おお、岱か」
「久しぶりに若の笑声をお聞きしたもので、参上してしまいました」
そう言って微かにはにかみながら伺候してくる。
近くに寄ると馬岱は机の上を見た。
「文を書かれていたのでしょうか」
珍しいものを見たという顔して馬岱が訊く。
「ん、まぁそうだ。でも止めた」
聞き終るかどうかのうちに岱が笑う。
「何がおかしい?」
「いえ、若らしい、と思いましたので。つい」
そう言って微笑う馬岱に釣られて馬超も笑った。
馬岱は文を書きあぐねた馬超の姿を見抜いたに違いなかった。
馬超もそれを承知で笑っている。
 
こんな他愛のないことで笑ったのは何時ぐらい振りだろうか。
この湿った土地に居ても岱はあの西涼の乾いた風を連れて来てくれる。
在るべきところの風を。
思慕して止まない地の風を。
 
馬超は心が朗らかになるのを感じた。
今なら言えそうな気がする。
 

「…岱、今まで苦労をかけたな」
 

馬岱は馬超の言葉を聞くと一度ははっとした顔を上げたが、すぐさま深く頭を垂れるとそのまま動かなかった。
何か返事をするべく口を開こうとしているがなかなか声が出ない。
辛苦を共にした馬岱には簡単すぎる言葉だったかもしれない。
しかし馬岱には通じた。少なくとも馬超は通じたと思った。
「これからも苦労をかけると思うが着いて来てくれるか?」
 
返って来る馬岱の答えはわかっている。
それでも問わずにはいられなかった。
言葉は問いではなく願いだったかもしれない。
馬超は辛抱強く静かに答えを待っている。
 
「この世に生のある限りは、必ず」
 
漸く顔を上げた馬岱は一片の迷いなく真摯な眼差しと共にそう告げたのだった。
 
 
 
総てを語らなくとも酌んでくれる者がある。
その存在のために心強くあれることを幸せに感じながら馬超は次に駆けるべき戦場に思いを馳せた。



 
 
 










素敵な素材をお借りいたしました

 


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