は最近、事の発端となった自分の指先を見つめては、溜息を吐いている。
スクエア型に切り揃えられ、淡い桜色に染められた爪。
嘗てイルカが口に含んだ爪をじっと見つめる。
同僚との宴会とは違った雰囲気の居酒屋で、
イルカと二人きりで食事をしてから、早や数ヶ月。
それからは、月に2,3度くらい「晩飯一緒にどうですか?」と誘われていた。
アカデミーの資料や課題を手に、お互いの家を行き来する休日も数回あった。
の気持ちは、もう抑えきれないほどまで大きくなってきている。
人混みを縫って歩く時に繋ぐ手とか、稀に肩や腰に回される事がある腕や、
戯れにかき乱される髪などに、何か特別な意味が含まれているといいのに…とはそっと願う。
その乙女心の大半を、イルカの存在が埋めていた。
お気に入りのオトコマエ俳優主演の映画すら見逃すほどに。
周りの人々は二人が付き合っているものとして見ていた。
でもそれって事実なのかしら? 少しだけ仲の良い同僚じゃないのかしら?
と、当のはいぶかしく思うことがある。
例えば昨夜のこと。
マダムシジミの御母堂が、イルカを贔屓にしているのは周知の事実だ。
何かにつけてイルカを指名しては、チップを弾んでいるらしい。
それだけならまだいい。相手は高齢だ。間違いが起こることはないだろう。
問題は、マダムシジミの姪であるその孫娘。
二十になったばかりのウニというその娘は、奔放なことで有名だった。
昨夜の花見の宴で、酔ったウニはイルカに絡み、抱きついたという。
挙句の果てに横抱きで、大名御用達の高級旅館まで送らせた。
その様子を、残業帰りのが偶然、見てしまった。
桜吹雪の中 イルカの項に回されたウニの腕 見つめ合う瞳と瞳
イルカの髪についた桜の花びらを指先で摘まんでは、紅い唇で意味有り気に吹き飛ばすウニ
は知らぬ顔をして家に戻る気には、到底なれなかった。
戦忍としての経験が多いほうではないだが、此処は忍者らしく忍んで様子を伺うことにした。
姿を現さずに警護にあたる暗部の内の一人が、笑いを堪えながらそんなを眺めていた。
暫く静観していた暗部だったが、が必要以上に忍者らしく振舞う滑稽さに堪えきれず、
「何しとんねん!?」との後頭部に思い切りツッコミを入れた。
ウニを抱いたまま旅館の門をくぐるイルカに気を取られつつ、はあたふたと言い訳をした。
「ごめんなさい! すぐに帰りますから、見逃してくださいっ!」
木の葉が誇る暗部相手に、見逃すもないだろうとは自分でも呆れた。
狸の面の奥の鋭い瞳に、面白がっているような笑みが混じっている。
暗部を振り切れる筈など無い事を承知の上で、踵を返したは木々の間を跳んだ。
お姫様抱っこは、きっと任務だ ただの任務
自分にそう言い聞かせながら、は速度を上げて、歯を喰いしばる。
舌を上顎に密着させて息を止めた。
泣くもんか 泣くもんか 絶対に泣くもんか
次に踏むべき枝が、滲んだ涙で見えない。
落下するを先程の暗部が救い上げた。
「逃げんでいい、不問にするから。気をつけて帰れ」
狸の面の暗部はそう言い残すと瞬身で消えた。
残されたは、穴があったら入りたい気分のまま、全力疾走で家路についた。
そしてまた、は今日も、淡い桜色に染めた爪を見つめて溜息を吐いた。
この指先を…とあの夜の事を思い出す。
この指先をイルカは吸った。
温かく濡れた舌で包み込み、絶妙なストロークで吸い上げて、深爪を治そうとしてくれた。
指先にそっと唇を寄せる。
ああ、イルカ先生は……とは想った。
この冬、木の葉は20年ぶりという厳しい寒さに見舞われた。
人は皆、春が来るのが待ち遠しかった。
イルカもも然り。
一緒に花見をしようと楽しみにしていたが、桜の開花は例年より遅く、
開花と同時にイルカは里外任務に就いてしまった。
1週間後、戻ってくるのを待っていたかのように、大名主催の花見の宴にイルカが呼びつけられたのだった。
イルカが吸った同じ指に舌先を当てながら、は逡巡する。
イルカ先生にお姫様抱っこして貰えるなんて、どんな気分だろう?
あの後、高級旅館で、イルカ先生はどうなったんだろう?
すぐに開放してもらえたんだろうか?
言い寄られたんじゃないんだろうか?
おやすみのキスを強請られただろうか?
最悪の場合、伽を言いつけられて了承してしまったりしてないだろうか?
いや、もっともっと最悪な場合もある。
大名の孫娘だもの、権力を振りかざして婿養子に、なんて話にでもなったりしたら……
「ああ、そんなの嫌だわ、イルカ先生」
「何が?」
「ひゃあああー!? イルカ先生、いっ、いつの間に!?」
受付業務を終えたイルカが困った顔で、の顔を覗き込んでいる。
「先生、オレの何が嫌なんですか?」
「いえ、違うんです。何もありません。本当に何もないんです。なんにもなかったですよね?」
「えっ?」
「あっ…え、あ、私…すみません。お先に失礼します」
は混乱する頭に冷静になれと言い聞かせながら、急いで職員室を後にした。
昨日から逃げてばかりだと、は情けなくて泣きそうだった。
イルカはそんなの後姿に眉根を寄せると、ロッカールームへ急いだ。
外は今にも降り出しそうな曇天で、冷たい風が強く吹いていた。
『今夜は花散らしの雨になるわ』
は桜並木に差し掛かると走るのを止めて、空を見上げてそう思った。
自分の想いも桜と一緒に散ってしまうんだろうと思うと、また涙が滲んできた。
涙が零れないように、上向きで瞬きを我慢して、はゆっくりと歩いて考えた。
イルカ先生は、大名の親戚にお婿に行くかもしれない。多分行くんだろう。
ふと思いついた最悪の事態の妄想が、突然現実味を帯びて来た。
イルカ先生を好きで好きでたまらない。
告白はしていない。されてもいない。
この乙女の恋心は、胸の奥でこのまま化石になるがいい。
泣くもんか 泣いたりなんてするもんか
ポツポツと春にしては大粒の雨が、の額を叩いた。
「上向いて歩いてると転んじまいますよ」
声に笑みを顰めたイルカが背後から傘を差し出した。
「傘、無いんだろ? 送って行きます」
吃驚して見上げるにイルカは溌剌とした声で言った。
「少し話したかったし…」
イルカはそう言うと、真剣な眼差しになって唇を引き締めた。
「花見、したかったのになあ。残念です」
イルカは散り行く桜を眺めながら言った。
は返事が出来なかった。
悪い妄想ばかりがぐるぐると浮かぶ。
『二人で会うのはこれきりにしよう なぜならオレは大名の親戚にお婿に行くから』
次の角を曲がるとそう云われるだろう でもイルカ先生は優しいから云い出し難いんだろうとは思った。
それならいっそ…と自分から口火を切った。
「昨夜のお花見の警護任務、大変だったんですってね?」
イルカはいつもの調子であははと笑った。
「ウニ様、御母堂様の孫様なんですが、酔っちまったんですよ。若い女性が酔い潰れるのってアレだな、
ちょっとキツイなあって話してたら、そんな事言い出すのはもうオジサンだって後輩に言われちまいましたよ」
イルカの口からウニの名前を聞くことに、の心は凍えた。
雨は激しくなり、冷たい風が少しづつ体温を奪っていく。
固くなったの肩にそっとイルカの腕が回された。
「花冷えだな」
低く優しい声でイルカが呟いた。
イルカの身体はとても温かく、は心地良かった。
こんなに近くでイルカの声を聞き、体温を感じられるのは今日が最後かもしれないとは思った。
伏せていた視線をイルカに注ぐとイルカもじっとを見つめた。
「あっ」
「え?」
「睫毛が」
イルカはの頬についていた睫毛を指でそっと摘んで見せた。
「やだ、抜けてましたか?勿体無い」
はうふふと笑いながら、イルカの指先にある、長くカールした自分の睫毛を見た。
「願い事、してごらん」
おまじないだからダメ元 でもどうせなら と は眼を閉じて心の中で念じた。
『イルカ先生とお花見がしたい 叶いっこないけどいつかお姫様抱っこも あと、イルカ先生が幸せになりますように』
「…しました」
「じゃあ…」
イルカが唇を丸めて息を吹きかけると、の睫毛は散っていく桜と共に風に乗った。
なにもかもが自分を象徴しているようだと思い、また涙が出そうになった。
その公園を抜けるとすぐにの家という所で、イルカはに向き直った。
「オレこれから任務なんです。少しだけ話したいんですが」
じゃあ上がってくださいというにイルカは首を横に振り、傍にある東屋に視線を移した。
畳んだ傘を柱に立てかける為にイルカが少し屈んだ。
湿気を含んだイルカの髪は、外灯の下でいつもよりしっとりと艶やかに見えた。
「オレの」
イルカはそう言ったきり、眉根を寄せて沈黙した。
言葉を捜しているようだった。
「オレの気持ち、伝わってないんじゃないかと心配で」
イルカが息を吸い込むのが分かった。
「昨夜、花見の任務が終わるとすぐに、暗部がオレんとこに来たんです。狸の面で訛りのある暗部です。
先生、泣いてたって。動揺して木から落っこちたって教えてくれました。……見てたんだね?」
ああ、あの暗部の人…とは顔が火照るのを感じた。
「ウニ様、若くてお綺麗な方ですね。イルカ先生とお似合いだと思いました」
狼狽を隠そうと口にしたの精一杯の言葉を、イルカは一笑した。
「やっぱり伝わってなかったか。よく聞いてください。オレ、先生が好きです」
あまりのストレートな物言いに、は顔だけではなく全身が真っ赤に染まった。
「ウニ様のことは心配ないよ。抱いて送ったのも、任務の一部ですから」
イルカは穏やかにそう言うと、鼻疵をぽりっと掻いた。
「オレ、先生以外の女性を自分の家に入れたこと、無いです。メシだって、先生と食うのが一番旨い。
だけど、先生、ずっと敬語のままだし、オレの事イルカ先生って呼ぶし。あ、オレもそうなんだけど…
きちんと伝えた事がなかったから、無理もないよね? 不安にさせて悪かったです」
告白するイルカの頬も、見る見るうちに赤く染まっていった。
「先生のこと、本気で好きです」
は瞬きも呼吸も忘れて、広がった瞳孔いっぱいにイルカを写していた。
激しくなった雨音さえ、自分の鼓動で掻き消されそうだった。
「先生もオレのこと好いてくれてると思って、いいんですよね?」
の舌は喉の奥に引っ込んだままで、何も発音する事が出来なかった。
ただ、こくこくと頷くだけだった。
イルカが一歩、踏み出した。
小さな一歩だったが、二人にとっては大きな前進だった。
イルカはの肩を抱き寄せて、熱い手での頬を包み、ぽろりと零れる涙を親指で拭った。
「泣かないで。昨日も今日もオレが泣かしたって、自惚れちまうよ」
見つめ合い、そうなることが当然のように、唇が重なり合った。
「口、開けて…」
と囁くイルカが笑みを浮かべた。
その直後、火影邸へ向かう暗部が、しっかりと抱き合う二人を見つけた。
「郵便ポストの大と小か!?」というツッコミは、誰の耳にも届かなかった。
振り返っった暗部は、狸の面の下で微笑み独りごちた。
「恋しぐれ≠ナんなあ」
10日後、春爛漫の陽気の中、二人は五分咲きの八重桜の花見に出かけた。
幾重にも重ねられた花弁の濃いピンクは、二人の気持ちを象徴しているようだった。
「オレって、シアワセ者だあ!」
お互いに持ち寄ったお弁当と酒を平らげた後、
イルカはの膝枕に耳を押し当てながらそう言った。
は満ち足りた気分で、イルカの髪を撫でる自分の指先を見つめた。
おまじないって効くのもあるのね とそっと睫毛を伏せた。
それから約1ヶ月半後、里は新緑に包まれる。
勢い良く芽吹いた若葉が、薫風に揺れていた。
イルカの誕生日の夜――
は、お姫様抱っこでイルカの寝室に運ばれたのだった。
の睫毛と指先が悦びで震えた。
イルカを好きになって良かったと、心底思う夜だった。
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